僕「以前、『陳腐化した問いかけが暴力になるとき』というブログを書いたよね。ただ、”なぜ?”が本人にあることはやっぱり重要らしい。」
もうひとりの僕「らしいっていうのはどういうこと?」
僕「先日、高校生と社会人が接する機会があって、社会人側としてはやはりそこがどうしても気になるんだって話を聞いたんだ。」
もうひとりの僕「なるほど。あまりその人にとっては”なぜそうしたいのか”が伝わってこなかったっていうことなのかな。」
僕「いや、そこまではわからない。こうあって欲しいというレベルがあって、そこには及ばなかったのかもしれない。」
もうひとりの僕「なるほど。”なぜ?”の深さみたいなものかな。面接でもそうだけど、この会社でなければならないのかとかすごく問われるよね。」
僕「確かにそうだね。まあ実際、会社の場合だとそこでなければならない理由ってそれほど強くない場合もあると思うけど。」
もうひとりの僕「それを聞いても思ったんだけど、当事者の思いだったり、実現したいことに話を聞く側が期待できるかってことでもあると思うんだよね。」
僕「思いに期待できるか?」
もうひとりの僕「うん。その人の思いっていうのは、当人の”なぜ取り組みたいか”に紐づくと思うんだ。思いや実現したい状態がある人ってさ、それに向けて試行錯誤していけると考えているんだけど、そんな人であったら期待しちゃわない?」
僕「確かに。話をした社会人も主体的に自分で動いていけるのは重要だよねって言ってた。」
もうひとりの僕「昔どこかで、入試面接で大事なのは当人の言葉に体重が乗っているかどうかだって聞いたけど、それに近い話なんじゃないかな。」
僕「体重の乗った言葉ね。当事者性があるかどうかってことか。」
もうひとりの僕「うん。僕らにとっても大事なことだと思うし、高校生とともに活動するのであれば本人たちにとっても大切なことだと思う。」
僕「言葉に重みを乗せて行くには”なぜ?”だけではなく、色々な角度の問いかけが必要だってことかもね。むしろ”なぜ”は最終的なアウトプットの形の一つかもしれないな。」
もうひとりの僕「そうだね。どんな形であろうと、一朝一夕で築かれるものではないんじゃないかな。少しずつ、少しずつ取り組んでいこうじゃないか。」
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