俺は珈琲が大変好きで、よく喫茶店に行く。 旅先でももっぱら散歩と称して喫茶店を巡っているし、
行く先々で店の雰囲気を"味わう"のが好きだ。
あげようと思えば素晴らしい店々の名前をあげることもできるが、
それは別の機会に譲るとして、俺が一番好きな珈琲は、
どうしたって「自分が淹れた」一杯になってしまう。 こう書くとナルシシズムを感じるかもしれないが、それだけではない。
珈琲を飲むだけでなく、"味わう"ということを考えると
「飲む」他に以下の行為が含まれると思う。
・豆を選ぶ ・豆をグラインドする ・珈琲を淹れる
これらの過程を通して珈琲を「飲む」ための、 自分が珈琲に向き合うための姿勢が出来上がる。 何度か試してみると準備には音楽が必要だったり、 静かな場所を求め始めたりと、その範囲は空間にも 及んでいく。そうして自分の特別な時間を組み立て、
じっくりと珈琲を味わうことができるのだ。
特に俺の場合は「父への一杯」が何物にも代え難い。
朝10時頃になると、
「今日は珈琲飲むかい?」 「うん。飲もうかな」
というやりとりが俺と父の間で始まる。
今日はどんな風に淹れようか、と
朝食の様子や今までの感想を踏まえて、
素人ながらに淹れ方を思案する。
父からの感想は大抵無いが、表情や珈琲の減り具合を
つぶさに観察しながら今日の出来栄えを見てとる。
そんな平凡な一杯こそが、特別な一杯なのだ。
珈琲の味わいは、 豆から始まり、空間へと拡がり、人にまで及んだ。
飲む相手をも含んだ味わい方というのは なかなか粋な気がしないか?
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