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執筆者の写真t.yagihashi

投影 - 祈りのパークにて -

更新日:2020年4月4日

釜石にはうのすまい・トモスというメモリアルパークがある。

復興が進み、「3.11の記憶が風化している」と言われることがあるけれど、そこには震災の記憶や記録が息づいている。メモリアルパークだから意図的にそうしているのだけれど、それにしても随分と色濃く残っている。


そう感じたのが、うのすまい・トモスの施設にある いのちをつなぐ未来館での1シーン。

僕は「震災・防災」についての研修で、スーツ姿の集団の1人として訪れた。


施設内で一通り震災の軌跡を辿り、様々な情景に触れていった。

当時高校1年生だった僕は埼玉の学校で部活をしていて、地震のせいで体育館の天井に挟まっていたボールが落ちてきた。電車も止まり、仕方なく自転車で4時間ほどかけて自宅まで帰ったのをよく覚えている。

翌朝、家族のためにコンビニに走りパンや乾電池を買って帰宅すると、ニュースで街が流されている映像を目にして、”口が閉じず言葉が出ない”というフィクションのような体験を人生で初めてした。そんな風に当時の情景が僕の中で広がっていた。


未来館で僕に説明をしてくれた方は、メディアなどでも度々出てくる”釜石の奇跡”と呼ばれる現場の当事者だった人だ。当時中学生だった彼女が学校から逃げる最中、猛スピードで避難する車に轢かれないように高台を目指したり、コップ一杯の水が避難所で配られたなどたくさんの話を聞かせてくれた。そして「あれは奇跡ではなく、日常からの防災の意識から生まれたものなので、私たちは”釜石の軌跡”と呼んでいます」と言っていた。

高校生だった自分が「なんかやばいぞ」と思っていた時、当事者たちはこれほどまで大きなものに立ち向かっていたのかと今更ながら思った。

話を聞いている最中、まともに目を向けることができなかったり、心がざわついてうまく話を聞き取れなかったり、そんな時間が続いた。(こうやって書いている今も動機が激しくなりつつある)


最後に祈りのパークへ向かった。慰霊碑や津波高のモニュメントがある場所だ。

そこら一帯をぐるりと回っているとき、ふとメガネを外してみると(僕は目がとても悪い)一緒に来ていたスーツ姿の人たちが、喪服姿であるかのように僕には見えた。まるでみんなで追悼の儀に参加しているかのように。


さて、話を一番はじめに戻そう。

「3.11が風化しているように感じられる」という言葉とともに、「私たちは悲しい被災者ではない」という立場も目にすることがある。これは震災を直視して過去の記憶と共にある(もしくは乗り越えた)人々なのではないかと想像する。

語り部の方の話を聞いていて、生々しい当時の情景を他者に伝えている今の姿は、様々な経験を直視し続けていたからこそあるのではないかと、そんなことを考えていた。それはもう力強さなどでは形容できない”何か”なのだと思う。


当時何もできなかった僕はいま釜石にいる。

祈るだけではない、別の形の関わり方が3.11という衝撃を見つめることに繋がるのかもしれないし、そうじゃないかもしれない。



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