在るということは、対話的に交通することなのである。対話がおわるとき、すべてはおわる。(p.3)
- t.yagihashi
- 2021年12月19日
- 読了時間: 2分
僕「『生きることとしてのダイアローグ』が読み終わった。ミハイル・バフチンの対話論について、まぁなんとなく理解できたのかなぁ...。」
もうひとりの僕「どんな内容だったの。」
僕「なにがしかの聴き手を念頭にいていれば(応答を求めていれば)、それはすでに対話であるとみなしています(p.55)とあるように”バフチンは”対話”は、を広い意味で考えていたようだよ。ダイアローグに対置されているのがモノローグという考え方なんだけど、ひとり語りって感じかな。そうではなく、自分や第三者を含めた複数の立場を包含して相互に影響しあい、話をすることを対話と捉えていたみたい。」
もうひとりの僕「うんうん。」
僕「ここで面白いなと思ったのは、”意識”や”真理”すらも対話でしか生まれえないってことだったな。」
もうひとりの僕「ふぅーん。」
僕「真理って絶対的なイメージがあると思うんだけど、絶対的な存在・解はなく、あくまで関わりを持つもの同士での対話によって、生み出されるものだと考えていたようだ。これにはある程度共感するな。」
もうひとりの僕「うんうん。」
僕「意識もさ他社なしにはありえないんだ。意識ってさ、言語を介して初めて理解されるよね。例えば、気持ち悪いという感情だって僕らも、言葉を持っているからそのように表現することができる。つまり、社会や文化も反映した僕らであるってことかな。また、僕らが僕ら自身を理解する、時には自分自身と対話を行うきっかけをくれるのだって他者だ。どういうことかというと、自分で自分をそっくりそのまま見ること、感じることはできないじゃない?相手の言葉や、表情、身振り手振りを通して自分自身を知ることしかできない。そうしたプロセスを経て僕らは意識を獲得しているんだって。面白いよね。」
もうひとりの僕「確かに。確かに。」
僕「バフチン的対話への眼差しが面白いのはさ、感情移入とか他者と同化することを拒否している点にあると思うんだよね。そうではなく、あくまで他者やあらゆるコンテクストの外部にいる自分であることが良いとしているみたい。ただ、相手の人格を認めた上でだけどね。そうした個人同士が在るからこそ、対話という関わりを通して、新しい共通理解を生み出すことができると思うんだ。」
もうひとりの僕「なるほどね。」
僕「自分を認めつつ、他者の在り方、人格を見つめるとなると容易ではないことにも思えるな。彼にはどんな日常が広がっていたんだろうね。」
もうひとりの僕「さぁ、どうだろう。」

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