1/20(土)に知人である稲葉哲治さんが主催する、エシカルフォーラム2018の
スタッフとして1日お手伝いに行ってきた。
このエシカルファーラム2018では、倫理的な社会への関わり方を意味する「エシカル」と、
僕らの身の回りにあるテーマである「食」「教育」「ファッション」など
10のテーマを掛け合わせたセッションが行われた。
学生時代から「エシカルファッション」に興味を持って、活動を続けてきた僕にとって、
このような多様な視点から考える機会は学びの多い1日だった。
イベントの中でエシカル協会の末吉さんから「自分なりのマイエシカルを作る」という
話があったが、僕自身もマイエシカルを少しずつ作るべく、
1日の中で考えた僕なりの”エシカル”について吐き出していきたい。
エシカルという言葉が使われる時、自覚的/無自覚的に関わらず、その背景には
「エシカル=善いこと/するべきこと」という意図が見え隠れすることがある気がする。
メディアで取り上げられる時などは顕著かもしれない。
ethicの語源であるギリシャ語のethosは
「精神/人格/品位」など文化や集団での価値観や信念を表す言葉らしい。
語源から考えるに、善いことというのは「エシカル」の1つの在り方として考えられるかもしれない。
ただ、だからといって善い/悪いという視点で
エシカルを狭義に捉えてしまうのにはどこか違和感を感じる。
エシカルフォーラムのオープニングトークセッションでは、
言い切れるはずがない。」という言葉が印象的だった。
この点に関して、フェアトレードが分かり易い例として挙げられるだろう。
そもそもが不平等な貿易を変えていこうとしたフェアトレードは、
善くあろうする姿勢が強い印象を受ける。
だが、生産者から僕たちの手に届くまでの間で、
どこかでしわ寄せがいっていないと言えるだろうか。
大きな話でなくとも、誰かの残業には繋がっているかもしれないし、
僕らに見えていないだけで、その背景には何かがあるかもしれないのだ。
この点については、『フェアトレードのおかしな真実』という本に
詳しく載っているので参照いただきたい。
言ってしまえば当たり前のことだが、エシカルにだっていい面も悪い面も両方ある。
どちらか片方だけというのはなかなか難しい。
こうした視点でエシカルを考えると、無意識のうちに(稲葉さんの言葉を借りると)
「エシカルをブランドに預けてしまっている」ことに気づく。
エシカルという言葉や様々な取り組みを知ると、
自分自身何かしなくてはいけない気持ちになることもある。
すると「エシカルに生産されたもの」を買ったり、
「オーガニックやミニマルな生活はいい」と言われれば、
そんなライフスタイルを少しずつ実践するようになる。
実践それ自体はとてもいいことだと思うが、
その意味やエシカルそのものへの懐疑的な視点を向けなければ、
エシカルな実践とは裏腹に、僕たち自身が”エシカルである”ことを
放棄しているようにも感じられる。
エシカルに懐疑的で、批判的な視点を持つことは思いの外、重要なんじゃないだろうか。
たぶん、エシカルという考え方は捉え方によってはすごく幅広い場面で使うことができる。
そもそも自分たちのライフスタイルに根ざしたものだし、
生活の中で実践していくことができるからだ。だからこそ、とても複雑なのだろう。
エシカルを消費という文脈で考えると”経済”を、一種の選択であると考えると”多様性”を、環境への配慮などを考えると”エコ”について一緒に考える必要がある。
初めに書いたような単一の視点で考えるには、エシカルはあまりにも複雑なテーマだ。
あちらを立てればこちらが立たずというように、何が正解なのかがわからないし、
終わりのない問いのようにも思える。
そういった”面倒臭さ”と付き合っていくことがエシカルなんじゃないかと、
エシカフォーラムを通して考えていた。
僕にとってエシカルとはnoblesse obligeではないし、
社会のために行うべきものであるとはあまり考えたくない。
だからこそエシカルを広義に捉え、身の回りにある取組みとして実践していきたいし、
誰もが自分なりに関われる在り方について考えていきたい。
その意味で、やっぱり末吉さんの言っていた「マイエシカルを作りましょう」という言葉は手触り感のある、しっくりくる表現だった気がする。
エシカルという言葉の意味を形作っていくのは、終わりのないことだけど、
とても重要なテーマなんだろう。
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