鷲田清一の「顔の現象学」を読んだ。
難しいので理解があまり追いつかなかったというのが正直なところだけど、僕自身が写真を撮っていくなかで『顔』というのはとても大切なひとつのエレメント(うまい言葉が見つからない)のよう思う。
わたし自身は、わたしの『顔』を直接みることはできない。常に鏡や、人の顔をみながら今、自分がおかしな表情をしていないか、場違いではないか(身だしなみや表情・振る舞い)ということを確認していく。そういった意味で顔は開かれた存在だ。他者の他者として、自分自身が存在すると鷲田清一は言っていた。
そんな様々な顔同士のやりとりによって顔は常に揺れ動いていく。その一瞬を捉えたいというのが写真を撮るなかでの僕自身の意識でもあるけれど、どんな写真が撮りたいのかと戸惑ってしまうことがある。そもそも『顔』それ自体が、他者の顔からの反応として、他者に”求められている”わたしの『顔』を演じてしまうし、ましてやレンズを向けられた他者は、わたしの『顔』がみれないどころか、他者の『顔』すらみえないことになる。
だから被写体であるわたしは、今あるの身の回りの環境すべてをみて、撮影者の意図を汲み取り、演じていくことになる。僕自身の「撮りたい」という欲求が一種の暴力となって被写体に襲い掛かっているのかもしれない。ワークショップやイベントの様子を撮影することがたまにあるけれど、そうした時もやっぱりこのやりとりが起こる。例えば、ワールドカフェの最中に、「楽しそう」な雰囲気を撮るためにカメラを持ってテーブルに近づいていくと何かを察したかのように全員が机の上の模造紙に目を向けたり、一瞬表情がこわばった後に何事もなかったかのように話を続けたりする(ただしこちらを意識しないように)。
こんな時、僕はとても「ドキッ」とする。
いい雰囲気で話し合いがが進んでいたかもしれないのに、その流れを遮ってしまっていないか。もしかしたら、いいアイディアが出たかもしれない瞬間を奪ってしまっていないか。その場を壊してしまっているのではないかという不安がいつもある。かといって、盗撮のように隠れて撮影をするのはフェアじゃない気がするし、僕が被写体に認識されなければいいという単純な話なわけでもないように思う。
何をどうすればいいのか、無責任なことだけど今のところ僕には正直わからない....。撮影に際して、技量不足などいろんな原因で迷惑をかけていることも多いと思う。よくわからないけど、撮影する人の一つの責任としてこのことについては、少し考え続けたいと思う。答え、見つかるかなぁ。
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